“テロとの戦い”を恐れる先進諸国が、個人情報認証による厳格な管理体制を構築する近未来。社会からテロを一掃したかに見える一方で、後進諸国では内戦や民族虐殺の勢いが止まらない。そうした戦争の影には常に、謎の米国人の存在が見え隠れする。彼の目的とは一体何なのか、この謎の人物を追いながら主人公クラヴィス大尉もまた、戦場における「自我」について葛藤し続ける。「この殺意は、自分自身の殺意だろうか」と。
脳科学が進化し、脳内のどの機能がどういった働きをするのかという「脳内マップ」が作成されるようになった時代における、これは「言語」というものについて考えさせられる物語です。
作中、「言語」はコミュニケーションツールというよりむしろ、臓器や手足、眼等と同じ「器官」と呼ぶべきもので、個体が生存適応性を高めるために生物進化の過程から生れたものだといいます。
そして私たちが「良心」と呼ぶものもまた、弱い個体として厳しい環境下で生存し続けるため、安定した集合(群れ)の中において、脳から発せられる様々な欲求を調整し、将来にわたるリスクを勘定して、その結果(一見、利他とも見える)最善行動として生み出された「状態」に過ぎないのであり、この「良心とよばれる状態」は脳内機能をほんの少し操作すれば、いとも容易く崩れてしまうものでもある。
戦場に送り出される兵士たちには、現地でより適切な判断と行動をおこせるように、脳内の「躊躇」する機能を抑制し倫理感をマスキングした、いわゆる「兵士として最高の状態」となるよう医学的処置が施される。「わたし」という自我を薄めることで価値判断を特定の方向に誘導するのだ。
処置後にカウンセラーは尋ねる「今なら子供を殺せますか?」
どんな言語の中にも人間を虐殺に駆り立てる深層文法があることを発見し、遺伝子にあらかじめ刻まれたこの「器官」を使って、後進国を内戦と民族虐殺に誘導する謎の男と、脳調整し良心を限定的に抑制させて戦場では子供を殺すことも厭わないクラヴィス達兵士との間に相違はあるのか。
タイトルの「虐殺器官」とは、私たちが普段語っている「言葉」とも置き換えられ、それの「使い方」について、今一度考えさせられた一冊です。
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